価値のないものなんてない

 

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前回記事の続き。

前回は、12歳から始めたヴァイオリンについて書いた。今回は大学での学びの話。

 

 

私は大学では、芸術学を専攻した。誤解されやすいが、美大のように絵を描いたりはしていない。私が勉強していたのは、絵画作品を見て、描かれた当時の社会情勢を考察したり、作品の評価から人々の思想を研究したり、などといったことである。特に専門としていたのは、20世紀前半のフランス美術だった。

 

 

そもそも、大学の入学試験を受ける前に、芸術学を専攻することに対して家族から大反対されたのだが、聞く耳を持たなかった。家族は、就職活動時のウケを考えて、法学部をゴリ押ししてきたのだが、本当に言うことを聞かなくて良かったと今でも思う。私は興味のないことには一切力を注げない性分なので、仮にも法学部に進んだ暁には、即大学を中退してニートになっていたに違いない。

 

 

そうして入った芸術学専攻は、パラダイスだった。

 

親には「芸術なんか勉強してどうするの」とため息をつかれ、法律や経済を学ぶ学生からは「絵見て単位取れるの?それ勉強?w」というような目つきで見られることも少なくなかった。

 

それでも、学科の教授たちは皆、芸術を勉強することが最も価値あることだと心から信じている人ばかりであったし、学生もそうだった。

「法律を勉強するより経済を勉強するより、やらなければいけないことは芸術を勉強することです!」なんて豪語する教授にも複数人出会った。そんな言葉を耳にするたび、ここが私の居場所だ、ようやく見つけた、と安堵していた。

 

 

作品に、芸術家に思いを馳せ、美とは何かひたすら考え、答えのないものをなんとか文字に起こして論文にしてゆく。その作業に真剣に向き合えば向き合うほど、教授も、友人たちも評価してくれる。興味深い新たな知見をくれて、何時間もカフェで議論することもよくあった。そんな時間が私にとって本当に幸せだった。

 

 

 

しかし、就職活動で現実に引き戻された。

 

本当のところ、芸術学専攻であろうがなかろうが、私の就職活動には何も関係なかったのかもしれない。文系の学部卒なんて、大学で学んだことと職が結びつく人のほうが圧倒的に少ないだろう。私が勝手に弱気になっていただけなのかもしれない。あんなに自信を持って、芸術学という学問と向き合っていたはずなのに。

 

 

「大学では何を学んできたのですか?卒論のテーマは?」

 

新卒就活生なら、誰しも耳にタコができている。

私だってそれくらいの答えは用意して面接に臨んでいるし、なんなら自分の研究テーマには無駄に誇りを持っていたので堂々と聞かれたことを答える。

 

 

「では、それを弊社に入社してどう生かしますか?」

 

ここまでも想定内。テンプレ通りの面接だ。当然答えは用意してあるし、何より私は芸術を学んできたことはどこでも生かせると確信しているんだから、こじつけの答えでもない、さっきみたいに堂々と、自信満々に答えればいい、、、

 

 

それなのに。

 

この「学んできたこと、弊社に入社してどう生かす?」の質問が、私にとっては恐怖だった。芸術学が生かせないと思っているからではない。それは絶対に違う。

 

芸術学を専攻してきた私に向けられた、「それ、ウチで何に役立つの?」という面接官の言葉には、「芸術学?そんなことして意味あるの?笑」という嘲笑が含まれている気がしてならなかったのだ。実際、私にその質問をぶつけてきた面接官の方の中には、そのような意味合いであった方もいらっしゃっただろうし、逆にそのような他意は一切なく、純粋に質問してきただけの方もいらっしゃっただろう。法律や経済を学んできた学生にだって、結局同じ質問をぶつけているのだから。

 

ぬくぬくとした居心地の良い学科から放り出されて、突然社会を目の前にした時の、芸術学専攻という何とも言えない後ろめたさ。何も悪いことはしていないし、好きなことを学問にしたことで、世間の大学生の平均よりも真剣に学問と向き合ってきたと勝手にも思っていたのだが、複雑な思いは拭い去れなかった。

 

 

そんな折、

「あなたは、この芸術を学ぶ学科に入って、良かったと思っていますか?」

とある企業の面接で聞かれた。

 

「思います!!!!」と、思わず身を乗り出して即答した。面接という場のくせに、何も考えずに気づいたらそう言っていた。

何度も練習した自己PRよりも、本気の熱意のこもった志望動機よりも何よりも、私の就職活動史上最も自信を持って答えた面接の質問がそれだった。

 

やはり自分にとって芸術を学ぶことを選んだ自分は間違っていなかったんだな、と思えた瞬間だった。

 

 

作家の小川洋子先生が、ご自身の著書の中で、早稲田大学文学部文芸専修に在籍していた時のことをこう振り返っておられる。

 

「国家資格がとれるとか、就職に有利だとか、目に見える目的のためではなく、ただ心静かに物語の世界に向かい合って、そこに立ち現れてくる人々と無言の会話を交わす。そういう喜びのためだけに時間を使う。それは尊いことなのだという雰囲気の中に、少なくとも四年間いられたのが、私にとって幸いな経験でした。」

 

小川洋子『物語の役割』より)

 

 

本当に、この通りだと思う。このまんま過ぎて、これを読んだ当時はまだ学部の3年生だったが、電車の中で泣いてしまった。

 

国家資格なんてなくてもいい。就職に有利になることを狙わなくていい。

ただ、大学生活4年間を、同じ想いを持つ仲間と共に誰よりも贅沢に過ごした。

 

国家資格があるのは素晴らしいし、就職がうまくいくのももちろん人生において大切なことだけれど、

目に見えない、もう二度と手に入らない一生ものの価値を、芸術学を専攻して手に入れることができたと私は信じている。

 

 

価値なんて、ひとつの側面から判断できるものじゃない。

お金にならないからダメなんてことは決してない。

 

 

だから、好きなものに一途になって、ありとあらゆるリスクを背負いながらも頑張っている人、ハタから見れば「真っ当に生きろよw」って言いたくなるような人にも、

 

「そんなことやって何になるの?」

 

とだけは絶対に言わないようにしたい。

 

そんなことやったって何にもなんねえよ、と思うのは、想像力の欠如の表れ。

 

誰しも、自分にとって価値があると心から信じられるものに、堂々と向き合える社会になればいいなと思う。どっちが良くてどっちが良くない、そんな風に考えてしまうこと自体が間違っている。

 

お金になるものは当然いいし、ならないものにはならないなりの価値があるって、考えらるようになればな。きっとなかなか難しい。